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人のために何かをする~ゆとりがあること、増やすこと

「けふのうちに とほくへいってしまう わたくしのいもうとよ」

で始まる宮沢賢治の詩『永訣の朝』
結核で3ヶ月前に亡くなった妹のとし子を詠んだ詩。

その詩の中の、とし子のことば。

「うまれでくるたて
こんどはこたにわりやのごとばかりで
くるしまなあよにうまれてくる」


こんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれてくる

と言っているのだ。


人のためになにをかなさん。

賢治も、死ぬ前日まで人の相談にのっていた。
(確か肥料相談。とても難しい天候の土地で、
農家はそれに酷く左右されていたから)

物理的だろうと、精神的だろうと、
現実的だろうと、妄想だろうと、
なんだろうと、
自分のことで頭をいっぱいにしているかぎり、
他者のことには目がいかない。

そういう時には、
雑になってしまったり、
八つ当たりをしてしまうことだってある。


他者を「大事にする」ということは、
至って平坦で無心でやるもの
だ。


それには、
心に余裕があることが大前提だ。

そして実は高度な技術も必要でもある。

なぜかというと
「大事に思う」ことと
「する」は違うからだ。


共感や思いやり、
自分が自分で守ることが出来ていて、
他者も守れる。

自分をないがしろにするような他者への思いやりは、
思いやりではない

それで自分がすりへると、
結局はそのマイナス分を他者へむけることで
穴埋めしようとしてしまう


かつ、
「やってあげているんだ」となると
「自分の力が他者に対して影響力がある」
と思う事であり
「やってあげているのだから見返りがないとおかしい」
というふうに意識する=自分のためにやっている
と思ってしまうことにもつながりやすい。

こうなると、
他者を勝手に何とかしようとして、
何とかならなかった時に、憤りや虚無感を感じる
ことになる。



だから、
「他者を思いやり何かをする」時は
お礼を言われなくても、
感謝されずとも、
迷惑だろうとなんだろうと、
ただ無心でそうするだけが良い


 * * *

「心に余裕を持つ」

私の場合なら、
例えばピアノでドビュッシーの『金色の魚』を弾きたいとする。
ショパンの『子犬のワルツ』 がやっとの段階なら
何ヶ月も練習しなければ弾けないだろう。
『金色の魚』を軽々と弾けるなら、
『子犬のワルツ』は簡単に弾けるということ。

スポーツをやっている人でも、
勉強でも仕事でもなんでも同じ。

いつもフラットな姿勢で無理なく出来ることというのは、
120%の努力でなくて、80%以下の力で出来ること
もしかしたら80%以下どころか20%くらいでやっていること


「人のために何かをする余裕」というのは、
その使っていない力の、ゆとり部分だ。


これがあって初めて「他者のために何かできるのだ」、
ということを、自覚することが大切。

もし、他者のために何かしたければ、
20%でもできるかどうか、
自分に問うた方がいい。


そうでないと、お互いのためにならないから。


もし、他者のために何かできる人になりないならば、
今ある20%で、そのしたいことができる100%の自分であるために、

120%の自分というのを「理想」として
チャレンジと努力をしていくことが必要
なのだ。

そうやって「ゆとり」を増やしていくことが
人の為に使える「20%」の領域を広げていくことにもなる
のだから。