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ニュース関連が増えてきました(・_・;)

嘲笑と愉快な笑いの違いがいじめの難しさの1つ、その他

いじめ問題は、確かに難しい。

 

 

亡父は、

私:父=1:1の場で、

私の悪口を、私に笑いながら言って、

それを怒ると

「何も話ができねえじゃねえか」と言った。

 

お笑いで、

A「おまえますます太ったんじゃねえか?」

B「まぁな、でもおまえほどじゃねえだろw

  っていうか、別人だろw」

 (本当はAじゃなくてCだった)

 

という会話があったとして、

これを笑うのは第三者の「聴衆」だ。

 

父は、芸人をみると「こんなやつら!ばかが!」

と「ボケ」をリアルにバカでふざけているのだと思うのか、

ばかにしながら、

「やってはいけないお笑いのマネの仕方」を自分はやっていたわけだ。

 

「笑う聴衆」が不在ということだ。

「第三者」ではなくて「自分」が嘲笑者なのだ。

 

この立ち位置は「いじめ」ではもっぱらよく使われている。

 

 

 

再び父の話をするが、

 

昔、久しぶりに親戚のお姉さん…当時30歳くらいの女性に会った際、

父は「太ったんじゃねえのか?へっへっへ」と笑った。

お姉さんは「やぁだ、そんなことないわよ」と笑い返した。

 

お姉さんの「笑い」はただの「作法」だ。

喧嘩をせず、その場を丸く収めるためだ。

 

父の笑いはただの「下卑た笑い」「嘲笑」だ。

 

しかし表面的にはどちらも「笑っている」のだ。

 

日本の「表現」のあり方と、

全員が理解するように確実に簡便に説明し周知させる

(「楽しい笑いではなくて、嘲笑だ」とわからしめること)

ことのむつかしさは、こういうところにある。

 

「なにをもってして”嘲笑”」と認定するか、ということだ。

 

これを世の人の多くは

「被害を受けた人が”被害を受けた”と感じたら」

なんて言うから、

 

故意に他人を嘲る人間が、

「被害者だと言い張るコイツは病気だ。妄想だ」

と豪語し、それがまかり通ったりする。

 

そういう他人にとって毒になる人間が、

手を変え品を変え、

自分がまかり通ることだけに、全力投球しているのだから。

 

そして本心ではニタニタしながら、

弱者や、心根の優しい人間や、

上記のお姉さんのような

「ごく一般的に、円満で和平を保とうとする」タイプの人などを

「いじめの対象」として捕まえるべく、

狡猾に捜し歩き、ワナをはり、見張り続けているのだ。

 

 

害を与えられるのは、いじめ被害者だけではない。

「見聞きしているだけの傍観者も加害者だ」というように、

そういう人たちも、そういう態度が身について、

あとで発揮するのだ。

その時の「罪悪感」から。

 

罪悪感がわくと同時に、自ら隠ぺいする。

隠ぺい体質の人間が、わんさか生まれていく。

 

いじめがあった時に、

加害者以外の人間が「声をあげられる」環境づくりをしていかないと、

どんどん隠ぺい体質の人間が造られていくのだ。

 

加害者はより強度を増す。応援されているのと同じことだから。

それから、

加害者の暴言等は、周囲の人間の心理状態も悪くすることが分かっている。

こうして加害者が大手を振って楽しく過ごせる環境が広まるほど、

うつになる人間が増えていくのだ。

 

上司が部下へ、部下は後輩、新人へ、

それぞれが家庭へ、家庭では一番弱い子ども、動物虐待など・・・

というふうに、

「社会的立場の弱い方へ」とどんどんどんどん、

「いじめ」というヘドロが流れていくのだ。

 

 

 

人間が、人間を熱湯に投げ入れて、

「おまえのような心の冷たいやつには、

ちょうどいい温度だろう!ありがたく思え!」と笑う。 

そして、周りの人間たちに、

「ほら、おまえたち!おもしろいだろう!わらえ!」

と、その人達は吐きながら笑わされる。

そんなようなものだ。

 

聴衆の誰かは、

家に帰ったら「ああ、胸糞悪い。こんちくしょう!酒もってこい!」

と浴びるように酒を飲んで、妻子を殴ってそこらへんに寝転がる

・・・かもしれない。

 

そんな様相だと想像してみよう。

 

 

現代人は、テレビにうつるときは、公の場では、

きれいなYシャツを着て、スーツを着て、

身だしなみをととのえるべし、

 

なぁんてみんな知っているからね。

誰もが・・どんなおおかみだって、羊のように見せかけられる。