mo-mo-factory

ニュース関連が増えてきました(・_・;)

これまで生きてきて、もっともつらかったこと~長兄の死

これは質問箱へ回答したものを手直ししたものです。

質問箱はこちら⇒ https://peing.net/ja/fancycheck

 

= = = = = = = = = = = = = = = = = = = 

 

私には、長兄が亡くなった時かと思います。

 

   ・・・・・・・

 

長兄は重度身障者で、体が段々悪くなっていき29歳で亡くなった。

 

月曜の朝、いつものように母に言われて兄の部屋のシャッターを開けると、

既に息絶えているのがわかった。

 

親類や小動物の遺体等を何度も見ていたから。

 

死体ってなんだろう、魂がない。

肉になるんだ…生々しいけれど、そうなんだ。

 

    ・・・・・・・

 

  重度身障者の長兄のこと

 

車いすの制作会社の方が、長兄の重度さ、介護の大変さを

「県内でも5本の指に入りますね」と言った。

 

現在では同じような症状になることはまずないが、

大変重い脳性まひによるもので、

体の自由がほとんど効かない。

 

 

首も座ってないし、

自分で立つことはもちろん、座ることもできない。

右か左をかろうじて向けるが、必ずしも好きな方を向けるわけではない。

自分では、足は動かせない。

腕はわずかながら。ただ、動かそうとしても、

思ったように思うところへ動かせなくなるので

フォークは危なくて持たせられなかった。

(といって、スプーンなら口に運べる、ということではない)

 

私の記憶にある限りの年齢でもう、

各関節や筋肉、靭帯なども、凝り固まってしまった。

 

 

車いすに座らせるときは、

胴を幅15㎝くらいあるベルトで、

股を紐でしばって、固定した。

 

体のどこかに力を入れようとしたり、

好きな怪獣のソフビを見つけて興奮でもしようものなら、

顔は逆を向いてしまうし、

足の付け根がすごい力で伸びてしまって、

車いすからズリ落ちそうになった。

 

体中の筋肉を、自分の意思で動かすことができないのだ。

かといって、神経断絶のように動かないわけではなくて、

全く違う方向へと動いてしまうわけだ。

 

咀嚼はほぼできないし、

嚥下もうまくはなかった。

すぐにのどにつっかえてしまってげほげほ吐き出した。

 

ストローで吸う、と言う事は無論できない。

コップで水を飲むのに母が編み出した方法は、

ゆっくり少しずつではなくて、ある程度勢いよく飲ませていく。

口を閉じてこぼさないように飲むということはできないから、

呑み込まれる水とこぼれる水が生じる。

 

コップ1杯の水を飲むのに、半分はこぼすから、

こぼれる水を吸わせるために、スポーツタオルを1~2枚は要した。

 

1回の食事ごとに、タオルを5枚は使った。

 

食事は胃ろうをしないために、母がどろどろにしたものを、

スプーンでひとくちずつあげた。

食べ終わるまで、母は自分の体を椅子代わりに抱き上げて

食事を食べさせた。

(飲みこもうとすると、足がつっぱってしまって、

車いすにしばりつけておく、というのも困難だったから)

 

 

うまく学ぶこともできないし、うまく話すこともできない。

身長は150㎝くらいはあるようだった。

体重は23㎏程度だった。

(どうしても増えない。寝たきりで、体の末端が使えないことと、

体中の筋肉が硬直している状態で消費していたからなようだった)

 

 

     ・・・・・・・

 

 

このような長兄は「兄」という感じはしなかったから、

実際には、次兄を「おにいちゃん」と呼び、

長兄は「〇くん」と呼んでいた。

 

 

年子の次兄は、

母が生まれたばかりから「〇くん」 に手がかかりっぱなし

だったからか、拗ねてしまって、共に行動することがなかった。

 

年の離れた私が、赤ん坊の時だけは面倒をみたこともあって、

それを母はいつまでも「本当はいいこなの」と言い続けたが、

多少大きくなってからは、次兄は私を執拗にいじめてばかりだった。

 

年の離れた私は、必然的に〇くんと共に過ごした。

私の幼児期は、〇くんは板橋の小児センターで過ごしたりしていたから、

当然幼児の私はつれて行かれていたわけだし、

その流れで、養護学校~作業所と、

共に過ごすことが多かったのだ。

 

家にいる時は、何となく同じ部屋にいて、

一緒に怪獣ビデオを観たり、怪獣の本を読んであげたり、

ソフビ怪獣でお話を作って遊んだりした。

 

(そう、本当に怪獣が好きだったから)

 

〇くんはうまくしゃべれなくて、

「よっかっかー」が「ヨーカドー」だとわかるまでに、

1週間かかったこともあった。

 

〇くんは、とても気持ちの良い笑い方をしたから、

私は悲壮感ではなくって、

笑わせるような遊び方をすることが多かった。

 

大人になった私は、

恋愛?にかまけて(話がずれてしまうのだが、その時の私はただ、

新しい遊びに夢中になっていただけだろうと思う)、

〇くんと一緒にいる時間を減らしてしまった。

 

そのことは、未だにちょっぴり悔いている。

 

(それで心を病む、というものではなくて、

おとなになるごとにある程度背負っていくものは

どうしてもある、というものの一つなんだよ。

〇くんの思い出、大切さを失いたくないのだから、

この荷物も同時に背負っていくものなんだ)

 

 

    ・・・・・・・

 

よく、「胸にぽっかり穴があいたようだ」と言うでしょう。

母が亡くなったときはそうだった。

(長兄が亡くなった5年後に母が亡くなった)

 

でも、長兄が亡くなった時は、

私の頭から足の先まで

体がスパッと半分もげて無くなったような感覚がして、

それは何年も続いた。

 

   ・・・・・・・

 

葬儀中は、自分の嗚咽で息が出来なくなるほど、

とてつもなく激しく泣いて過ごした。

 

葬儀には、本当に親しい人達ではなくて、血族だけが集まる。 

普段行き来もしない親類がやあやあ久しぶりと集まってくる。

そして火葬場や、食事中になにやら笑顔で話したりする。

 

長兄は重度すぎて、よその人には奇っ怪に見えるから避けられていた。

だから遺体を見られる様が、ただの見せ物のようで、

心底いやでたまらなかった。 

 

    ・・・・・・・

 

当時、私は個別学習指導塾で仕事をしていて、一週間忌引きを頂いた。

翌週から出勤したが、一週間は母に送迎してもらい、

仕事中にトイレで涙をぬぐいながら働いた。

 

あまりもひどいから、講師のみなさんには、

特別な家族の死であり、我が身が無くなったのと同じで、

しかしながらも本当に迷惑をかけてすまない旨は伝えた。

 

   ・・・・・・・

 

 

亡くなった長兄は重度障害で何にもできないし、大変だし、

段々身体機能が落ちていき亡くなれば、仕方ないなぁ

と、ともすれば思いそうだけれども、それは違う。

 

生活を共にしていない家族より密接であればあるほど、

存在感はより濃くて、失うのは辛いのだ。

 

 

私はいつも長兄と時を共に過ごしていた。

私の家は機能不全ではあったが、

ほとんど何も出来ない長兄は台風の目のようで、

家は長兄を中心にぐるぐるとまわっていたのだ。

 

台風を作り出していた要は親ではあるが、

長兄の存在はある意味で全員を一様に

ぐるぐる回していたと言えなくもない。

 

それが完全に無風となってしまった。

 

(※長兄のせいで荒れたとか、

いなくなって平穏になったということではない)

 

 

母は、毎日仏壇にご飯をお供えし、祈った。

墓前の花もいつも手入れを欠かさずきれいに咲かせていた。

 

私はそんな母の背を見るのがいたたまれなかった。

辛さに向き合う、というのはとてつもなくそれ自体も苦しくて辛いことだ。

自分の見たくない自分と対面することでもある。

 

 

そんなことをしたくない父と次兄は、

長兄の生前より、できるだけ見てみぬふりをして過ごしていたし、

長兄の部屋に入ることさえ滅多になかった。

 

 

   ・・・・・・・

  

母は「障害児の親って早死にしやすいのよ。

我が子だから苦労を苦労とも思わずずーっと面倒見続けるでしょう。

だから、死なれてしまうと、疲れが一気に出て、

早く亡くなっちゃうのよね」と言ったことがあった。

 

長兄の死後、5年して母は亡くなった。

 

   ・・・・・・・

 

それからさらに数年経ち、

埼玉医科大付属病院の精神科医で、

主にガンで家族を亡くし辛い思いをしている遺族

を診療しているドクターの講演会が、

たまたま近隣であって、出席したことがある。

 

その会には10年単位で苦しんでいる方がたくさん参加していた。

質問時間にはむせび泣き、話せなくなる方も複数いて、

私はその光景を未だによく覚えている。

 

 

もちろん、死を宣告された本人は、

死からもそこへ向かうまでの道程からも、逃げることはできない。

 

しかし見守る家族や身近な人たちの、

大切な者を亡くして生きていくことの辛さというものは、

ともすれば乗り越えられないような辛さでもある。

 

 

   ・・・・・・・

 

 

私たちの住むこの世界というものは、

毎日何かが生まれて何かが死んでいく。

 

つまり、死というものは、私たちにとって実はとても身近なものなのだ。

 

けれどもとても辛いものだから、

私たちは考えないようにして生きているし、

何度も何度も法要をしたり、

毎日墓前をお参りなどしてなんとか過ごしていっているわけだ。 

 

   ・・・・・・・

 

 

私は、ごくまれに長兄の夢を見る。

「え?あれ?生きてる?え?お母さん、死んじゃってるのに?

あれ?ごはんもお水もあげてない!」

と、駆け寄ってみたら、かろうじて生きていた。

 

…という、ありえない夢を見るのだ。

 

母の夢も、似ている。

母の場合は

「死んでるのに?あれ?なんで?死んじゃったよね?そうだよね?」

ととまどいながら起きる。

 

どちらも、夢からさめながら、

「死んだんだ・・・死んだんだっけ」

と、あの日死んだ時を、追体験することになる。

 

 

だから、

”より身近だった者の死”というものは、 やっぱり辛いものだと思う。

長く生きていくということは、

そういうものを、何がしか抱えながら生きていくことでもあると思っている。