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私のお母さん(1)

私の母

農家の長女で昭和22年生まれ。

父(私の祖父)=厳格。トイレで月明かりで勉強して、憲兵になった。人望の厚い人で、葬式は長蛇の列を成した。

母(私の祖母)=細かい。色々な事をよく覚えている。

母によれば

「すぐ泣きじゃくってみっともなかった」

「90点以下だと怒られた」

 * * *

英語が好き。

朗らかで快活。

友達が多い。

結婚前はガリガリだったそうだが、

私の知っている母はぽっちゃり。

天パ。まじめ。

少しハデな趣味。(柄柄系じゃなくて色が)

ミュージカルが大好き。多趣味。

 

22歳でお見合い結婚をし、すぐ長兄を出産。

重度身体障害児。

板橋の小児医療センターで暮らす

(通所だったり平日宿泊したりしていたのかな?わからない)

年子で次兄を出産。

そして年の離れた私を出産。

長兄が2000年に亡くなる。

乳がん手術。南雲先生執刀。

(母と、叔母と3人でよく通った)

2005年、母58歳。1月私は結婚で埼玉→愛知へ。

6月に母緊急入院にてスキルス胃がん末期の診断。

翌2006年2月、59歳で永眠する。

 

* * *

 

私と母の思い出

 

・幼稚園時代、私が舞台の真ん中に出てきて

 「おかーーさーーーん!」と手を大きく振った。

 という話は散々聞かされた。そんなことをする子は他にいなかったそうで。

 

・母が自分がやりたくて出来なかったからと3歳からピアノを習わせられる。

 5歳の時、いきたくない!やだーー!と粘った時に、母が腕を引っ張って、

 腕が抜けた。

 

・その頃、母にはちょっとお金持ちで社交ダンスをする派手で美人な社長婦人の友達がいて、その人の家によく遊びに行っていた。

ある日、菓子箱からいくつか出して、私にくれたのだが、私が

「やだ!これじゃない!あっち(箱)がいい!」といただいたお菓子をほおりなげた、というので、これも散々聞かされた。(この光景は私もよく覚えている…)

 

・母はいつも、洗濯物をしていた。

 (長兄のために、洗濯機を1日5回はまわしてた)

 その横に、私はいつもいて、1人でじっくり遊んでいた。

 母はにこにこして「楽しそうねえ」といつも言うのだった。

 これは特によく思い出す。

 細長い洗濯かご(なんと実家にまだある)があって、

 それに入って遊ぶのが特に好きだった(2歳前のはいはいしていた時期)

 

・私が大人?になって、PCに向かってネットゲームやらチャット(当時はテキストチャットだけです)で遊びながらケタケタ笑っているので、

(※私は「(笑)」と書くときなんかは本当に笑っているから)

母は「ずーっとにこにこして、楽しそうね」と言った。

 

母は、「私は笑うのがへただから」と言っていたのも印象深い。

 

 

・私は過敏性腸症候群でよく下痢になった。

臭いのにトイレで背中をさすってくれたこともあったし、

出先で「おなかいたい」と言うと「気のせい!」とキレることもあった。

(とにかく、頑張り屋過ぎて自分の無理がわかっておらず、

全てにおいてクオリティが低い←共依存で苦しむタイプに多い)

 

 

・18歳頃、私は俗に言うモラトリアムで、どうにもこうにも出来ず、2、3冊、 河合隼雄先生の本を読んだりして、

 ある時母に、

「お母さん、お願いだから、2週間くらい、そっとしといて」とお願いしてみた。

「1週間でもいい。そしたら自分でちゃんと起きるから」と言ったが、母はブチギレた。

 

自室で、私がベッドの布団の中にもぐっていたら、

母がダーーーッと突入してきて、布団をすごい勢いでひきはがして、

「起きなさいっっ!!!」と鬼の形相。

 

「ああ、この人は本当にわからないばかな人なんだ」と悟った。

 

 

母は私を心配する。

 

心配することと把握すること、思うようになること

が正しいことだと、勘違いしている。

 

母には、「自他の間の不可侵条約」というものが存在しない。

黙って見守るべきところでそれが出来ない人だ。

 

そしてこういう人は、たくさんいる。

間違っている。逆。

 

子供が、自分の知らない所で生きていくことを容認できないから、

心を土足で踏みにじる。

 

 

自分が、安心したいからやる。

子供が、自分で立つことを見守れない。

(見守るというのは放置することではない。

 今も、勘違いしている親がたくさんいる)

 

 

面倒をみてないと自分の気が済まないから、

面倒をみなきゃいけない子なんだと思い込んでいる。

 

 

白い絵具と、黒い絵の具を、仕切りで分けていたら混ざることはない。

仕切りのないところに出せば、危うく、

いつ勝手に混ざってしまうかわからない。

 

不安にさいなまれていないといけない。

少しでもバランスが崩れたら、混ざってしまうから。

 

 

体に皮膚がなかったら、私たちは生きていられない。

何気なく触れている空気だが、

ほんの少し皮膚が破れただけで、痛い。

皮膚がなければ私の身体は存在していられない。

 

 

体も、心も、精神も、人格も、同じ。

バリアがあって初めてまともに痛くなく存在できて、

他者と手をつなぐことができるし、

”社会”の中で、立つことができる。

 

 

母が亡くなる直前~

 

母が亡くなる直前の、年明け、

私は愛知から実家へ帰ってきた。

 

すると、私の部屋の布団に、

母は「布団乾燥機」をかけていた。

1カ月ほど前から「腰が痛いのよね」と言っていたのに関わらず、

布団乾燥機を1階から2階の私の部屋まで持って来ていた。

 

本当にばかな人だ。

 

 

母ががんセンターに入院して、

私は住まいが県外になっていたから、簡易ベッドで付き添い入院をした。

2ヶ月ほど寝泊りした。。。

 

それから一時帰宅して、再入院して何日だったかなぁ。

母は亡くなった。

 

 

長兄が亡くなった後、

 

毎日、母は仏前にお水とご飯を備えて、

話しかけていた。

 

寺まで行き、墓前の花の世話も欠かさずしていた。

 

その背中が、私には大変痛々しかった。

 

 

母は死ぬ前に帰宅した際、

 

ベッド上から指示してきて、

(兄用に、電動ベッドを買ったけど、兄は使わず

ちょうど母が使っていた)

 

お金の整理やなんかして

「ちゃんと全部やったわ」と言った。