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ニュース関連が増えてきました(・_・;)

私のエゴグラム

http://www.wind.ne.jp/hassii/sinkan/iryou/e-next

はっしーさんの「エゴグラムのパターン」のページより)

 

半年~数か月前

http://www.wind.ne.jp/hassii/sinkan/iryou/eg-src/eg13.htm

CP NP ACが低く、A FCが高い、台形型パターン

CP NPとACが低く、中央のA FCが高い台形型です。A優位型FC優位型のミックスにNP低位の要素が加わります。

典型例は「まあいいか」+「冷たく突き放す」+「合理的」+「天真爛漫」+「妥協せず」で特徴づけられます。

本来、明るく楽しくバリバリできる、生活エンジョイタイプです。しかし、まあいいや、周りもどうでもいいや、妥協することもないやで、非常に自己中心的です。周囲への配慮なくわがままを通せるタイプです。

 

今日は、他がもう少し上がって、

普通、普通、普通、高い、普通

になっていた!!

(●^o^●)

 

ちなみに、今日利用したのはこちら

エゴグラム改 性格診断 心理テスト』

http://www.sinritest.com/ego.htm 

『愛』について思っていること

愛は生まれながらに持っていて、

あなたの中に眠っています。

あなたの心よりもっと奥底にこんこんと流れています。

 

心も意識もその上にたゆたう笹舟です。

 

関心をもつ→愛を向ける、開放する。

 

心の窓を開けるというのは、

そのあなたの中の愛を開いていることです。

 

 

他人の窓を、

さあ開けろ、と無理やりこじ開けることはできません。

 

開いてくれていたら、

愛の風を受け取りましょう。

 

 

窓の向こうはどこまでもあたたかく、広いものです。

 

自分の中に、まずは、感じましょう。

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これまで生きてきて、もっともつらかったこと~長兄の死

これは質問箱へ回答したものを手直ししたものです。

質問箱はこちら⇒ https://peing.net/ja/fancycheck

 

= = = = = = = = = = = = = = = = = = = 

 

私には、長兄が亡くなった時かと思います。

 

   ・・・・・・・

 

長兄は重度身障者で、体が段々悪くなっていき29歳で亡くなった。

 

月曜の朝、いつものように母に言われて兄の部屋のシャッターを開けると、

既に息絶えているのがわかった。

 

親類や小動物の遺体等を何度も見ていたから。

 

死体ってなんだろう、魂がない。

肉になるんだ…生々しいけれど、そうなんだ。

 

    ・・・・・・・

 

  重度身障者の長兄のこと

 

車いすの制作会社の方が、長兄の重度さ、介護の大変さを

「県内でも5本の指に入りますね」と言った。

 

現在では同じような症状になることはまずないが、

大変重い脳性まひによるもので、

体の自由がほとんど効かない。

 

 

首も座ってないし、

自分で立つことはもちろん、座ることもできない。

右か左をかろうじて向けるが、必ずしも好きな方を向けるわけではない。

自分では、足は動かせない。

腕はわずかながら。ただ、動かそうとしても、

思ったように思うところへ動かせなくなるので

フォークは危なくて持たせられなかった。

(といって、スプーンなら口に運べる、ということではない)

 

私の記憶にある限りの年齢でもう、

各関節や筋肉、靭帯なども、凝り固まってしまった。

 

 

車いすに座らせるときは、

胴を幅15㎝くらいあるベルトで、

股を紐でしばって、固定した。

 

体のどこかに力を入れようとしたり、

好きな怪獣のソフビを見つけて興奮でもしようものなら、

顔は逆を向いてしまうし、

足の付け根がすごい力で伸びてしまって、

車いすからズリ落ちそうになった。

 

体中の筋肉を、自分の意思で動かすことができないのだ。

かといって、神経断絶のように動かないわけではなくて、

全く違う方向へと動いてしまうわけだ。

 

咀嚼はほぼできないし、

嚥下もうまくはなかった。

すぐにのどにつっかえてしまってげほげほ吐き出した。

 

ストローで吸う、と言う事は無論できない。

コップで水を飲むのに母が編み出した方法は、

ゆっくり少しずつではなくて、ある程度勢いよく飲ませていく。

口を閉じてこぼさないように飲むということはできないから、

呑み込まれる水とこぼれる水が生じる。

 

コップ1杯の水を飲むのに、半分はこぼすから、

こぼれる水を吸わせるために、スポーツタオルを1~2枚は要した。

 

1回の食事ごとに、タオルを5枚は使った。

 

食事は胃ろうをしないために、母がどろどろにしたものを、

スプーンでひとくちずつあげた。

食べ終わるまで、母は自分の体を椅子代わりに抱き上げて

食事を食べさせた。

(飲みこもうとすると、足がつっぱってしまって、

車いすにしばりつけておく、というのも困難だったから)

 

 

うまく学ぶこともできないし、うまく話すこともできない。

身長は150㎝くらいはあるようだった。

体重は23㎏程度だった。

(どうしても増えない。寝たきりで、体の末端が使えないことと、

体中の筋肉が硬直している状態で消費していたからなようだった)

 

 

     ・・・・・・・

 

 

このような長兄は「兄」という感じはしなかったから、

実際には、次兄を「おにいちゃん」と呼び、

長兄は「〇くん」と呼んでいた。

 

 

年子の次兄は、

母が生まれたばかりから「〇くん」 に手がかかりっぱなし

だったからか、拗ねてしまって、共に行動することがなかった。

 

年の離れた私が、赤ん坊の時だけは面倒をみたこともあって、

それを母はいつまでも「本当はいいこなの」と言い続けたが、

多少大きくなってからは、次兄は私を執拗にいじめてばかりだった。

 

年の離れた私は、必然的に〇くんと共に過ごした。

私の幼児期は、〇くんは板橋の小児センターで過ごしたりしていたから、

当然幼児の私はつれて行かれていたわけだし、

その流れで、養護学校~作業所と、

共に過ごすことが多かったのだ。

 

家にいる時は、何となく同じ部屋にいて、

一緒に怪獣ビデオを観たり、怪獣の本を読んであげたり、

ソフビ怪獣でお話を作って遊んだりした。

 

(そう、本当に怪獣が好きだったから)

 

〇くんはうまくしゃべれなくて、

「よっかっかー」が「ヨーカドー」だとわかるまでに、

1週間かかったこともあった。

 

〇くんは、とても気持ちの良い笑い方をしたから、

私は悲壮感ではなくって、

笑わせるような遊び方をすることが多かった。

 

大人になった私は、

恋愛?にかまけて(話がずれてしまうのだが、その時の私はただ、

新しい遊びに夢中になっていただけだろうと思う)、

〇くんと一緒にいる時間を減らしてしまった。

 

そのことは、未だにちょっぴり悔いている。

 

(それで心を病む、というものではなくて、

おとなになるごとにある程度背負っていくものは

どうしてもある、というものの一つなんだよ。

〇くんの思い出、大切さを失いたくないのだから、

この荷物も同時に背負っていくものなんだ)

 

 

    ・・・・・・・

 

よく、「胸にぽっかり穴があいたようだ」と言うでしょう。

母が亡くなったときはそうだった。

(長兄が亡くなった5年後に母が亡くなった)

 

でも、長兄が亡くなった時は、

私の頭から足の先まで

体がスパッと半分もげて無くなったような感覚がして、

それは何年も続いた。

 

   ・・・・・・・

 

葬儀中は、自分の嗚咽で息が出来なくなるほど、

とてつもなく激しく泣いて過ごした。

 

葬儀には、本当に親しい人達ではなくて、血族だけが集まる。 

普段行き来もしない親類がやあやあ久しぶりと集まってくる。

そして火葬場や、食事中になにやら笑顔で話したりする。

 

長兄は重度すぎて、よその人には奇っ怪に見えるから避けられていた。

だから遺体を見られる様が、ただの見せ物のようで、

心底いやでたまらなかった。 

 

    ・・・・・・・

 

当時、私は個別学習指導塾で仕事をしていて、一週間忌引きを頂いた。

翌週から出勤したが、一週間は母に送迎してもらい、

仕事中にトイレで涙をぬぐいながら働いた。

 

あまりもひどいから、講師のみなさんには、

特別な家族の死であり、我が身が無くなったのと同じで、

しかしながらも本当に迷惑をかけてすまない旨は伝えた。

 

   ・・・・・・・

 

 

亡くなった長兄は重度障害で何にもできないし、大変だし、

段々身体機能が落ちていき亡くなれば、仕方ないなぁ

と、ともすれば思いそうだけれども、それは違う。

 

生活を共にしていない家族より密接であればあるほど、

存在感はより濃くて、失うのは辛いのだ。

 

 

私はいつも長兄と時を共に過ごしていた。

私の家は機能不全ではあったが、

ほとんど何も出来ない長兄は台風の目のようで、

家は長兄を中心にぐるぐるとまわっていたのだ。

 

台風を作り出していた要は親ではあるが、

長兄の存在はある意味で全員を一様に

ぐるぐる回していたと言えなくもない。

 

それが完全に無風となってしまった。

 

(※長兄のせいで荒れたとか、

いなくなって平穏になったということではない)

 

 

母は、毎日仏壇にご飯をお供えし、祈った。

墓前の花もいつも手入れを欠かさずきれいに咲かせていた。

 

私はそんな母の背を見るのがいたたまれなかった。

辛さに向き合う、というのはとてつもなくそれ自体も苦しくて辛いことだ。

自分の見たくない自分と対面することでもある。

 

 

そんなことをしたくない父と次兄は、

長兄の生前より、できるだけ見てみぬふりをして過ごしていたし、

長兄の部屋に入ることさえ滅多になかった。

 

 

   ・・・・・・・

  

母は「障害児の親って早死にしやすいのよ。

我が子だから苦労を苦労とも思わずずーっと面倒見続けるでしょう。

だから、死なれてしまうと、疲れが一気に出て、

早く亡くなっちゃうのよね」と言ったことがあった。

 

長兄の死後、5年して母は亡くなった。

 

   ・・・・・・・

 

それからさらに数年経ち、

埼玉医科大付属病院の精神科医で、

主にガンで家族を亡くし辛い思いをしている遺族

を診療しているドクターの講演会が、

たまたま近隣であって、出席したことがある。

 

その会には10年単位で苦しんでいる方がたくさん参加していた。

質問時間にはむせび泣き、話せなくなる方も複数いて、

私はその光景を未だによく覚えている。

 

 

もちろん、死を宣告された本人は、

死からもそこへ向かうまでの道程からも、逃げることはできない。

 

しかし見守る家族や身近な人たちの、

大切な者を亡くして生きていくことの辛さというものは、

ともすれば乗り越えられないような辛さでもある。

 

 

   ・・・・・・・

 

 

私たちの住むこの世界というものは、

毎日何かが生まれて何かが死んでいく。

 

つまり、死というものは、私たちにとって実はとても身近なものなのだ。

 

けれどもとても辛いものだから、

私たちは考えないようにして生きているし、

何度も何度も法要をしたり、

毎日墓前をお参りなどしてなんとか過ごしていっているわけだ。 

 

   ・・・・・・・

 

 

私は、ごくまれに長兄の夢を見る。

「え?あれ?生きてる?え?お母さん、死んじゃってるのに?

あれ?ごはんもお水もあげてない!」

と、駆け寄ってみたら、かろうじて生きていた。

 

…という、ありえない夢を見るのだ。

 

母の夢も、似ている。

母の場合は

「死んでるのに?あれ?なんで?死んじゃったよね?そうだよね?」

ととまどいながら起きる。

 

どちらも、夢からさめながら、

「死んだんだ・・・死んだんだっけ」

と、あの日死んだ時を、追体験することになる。

 

 

だから、

”より身近だった者の死”というものは、 やっぱり辛いものだと思う。

長く生きていくということは、

そういうものを、何がしか抱えながら生きていくことでもあると思っている。

ポジティヴという名の偽装

ネガティヴ=悪

として、

 

ポジティヴ

と称した、

 

美しい衣装をまとわせる行為が流行っている。

これは

「ポジティヴ」という名の偽装行為だ。

 

「歯に衣きせていますよ」

なんて言えないから、

「ポジ変換」と言い換えている。

 

「本当」が0パーセントじゃないから

「そうかもな」

「たしかに」

「そのとおり!」

 

なぁんて思ってしまうのよ。

 

「びんぼっちゃま」の衣装みたいなもの。

 

雑です。

 

なのに、

 

人は、

 

「見たくないもの」をスルーしやすいので、

こんな雑な「偽装」でも見抜けなくなるし、

 

自ら「びんぼっちゃま」仕様の衣装を身にまとう。

 

どんなにぼろぼろで、センスが悪くて、古い服でも、

それが「自分でチクチクとつくってきた衣装」であれば、

それを堂々と着ていていいのに。

 

「偽造工作」をかっこよくすればするほど、

映画の一幕を観るように、心が躍って、

益々、その「偽装工作」を受けていれていく。

 

 

偽装工作がニュースになると、

直接の被害者以外もわめきたてるのは、

 

そういう「自分に対する偽装工作」もまた、

「いつか誰かに見破られてしまうのではないだろうか」

という心配が沸き起こるから。

 

「自分はそんなこと絶対してないから!」

って言いたいんだよ、自分に対して。

 

自己の内面を、自分で偽装工作してもしなくても

そこには「証拠」もいし

「問い詰められる」こともない。

 

だけど「嘘をついていること」が「怖い」。

だから、攻撃する。

 

 

「本当の自分はひ弱で、心細くって、

寒くって、死にそうなほど悲しくて、

ダメなんじゃないだろうか」

という気持ちがどこかにあるから。

 

だから、直視したくない。

ポジティヴにしがみつく。

 

 

そうすることで、

ネガティヴとかポジティヴとか

に属することもない、

 

たったひとりの「わたし」

という大切な自分を、

本当はないがしろにしてしまっている、

 

ということに気付くことができない。

 

偽装をやめても、

びんぼっちゃまをやめても、

 

「わたしはわたし」でちゃんといるし、

 

やめた先にしか、

 

 

「本当は、清らかで美しいわたし」

に出会うこともできない。

 

 

他者を呪ったり怒ったりし続けていく「私」

を見ている、内側の「私」は泣いているかもしれない。

映画『ロシアンルーレット』の評価が低い理由…

ジェイソンステイサム出演
なのに、低評価。

ということで、今日やっと観た。


低評価の理由の一つには、

空気感、間(ま)、がわからない人、
共感力の低い人が
結構多いからだとわかった。


これだけ
内容、展開、絵づら的に単調なのに
緊張感をもたせ、
人の心の浅ましさ、尊さ、非情さ等を
見せる映画は少ないんじゃないかなぁ。

ロシアンルーレットや、
地下(の遊び)
といった選択も良かっただろう。

強いて言うなら、
パッケージが失敗なのかもしれない。

ジェイソンステイサムの顔で売上が出るから
仕方ないのだけど、
まぁ、主人公は、電気技師の若い青年なわけで。


この2人の対比も重要。
コントラストが生きている。


観る人の中に、
ジェイソンステイサムだから、
こういう映画にちがいない、
という先入観が強すぎて、
それが“期待”となりすぎて、

・・・結果、
「なんだ、ハデなアクションないじゃないか」
という「期待はずれ」に、
勝手になっている。



まぁ、よくあることなんだけども、

ネット世界が当たり前になっている負の面でもあって、
「自分に選択権がある」
という状態が常態化している。

それを、意識できているか、していないか。
無意識に乗っ取られている人は、
主体性ではなくて、裸の王様にすぎない。

この感覚に支配されている人は、
共感力というものが薄くなってしまう。

自分の心が先にありきで、
対象物が
それを充足させるかどうか
という判断の仕方に強く偏っている。


物事を一義的、一面的にしか
見えにくくなっている。

そして想像力の欠如、
興奮の感じ方も偏っていて、
求め方も少しく異常だ。


よくあるでしょう。

電車事故で人が死に、
カメラでとる人、
実況中継を嬉々としてSNSにあげる人、
「事故むかつく、遅刻する」って言う人…


映画は、映画であって、作り物だ。
しかし、監督や出演者の演技を評価は、
純粋な物語への感想ではない。
何をどう描いているか、どんなふうに感じたか
という感想が少ない。

へたくそでも、薄っぺらくても、
「めっちゃどきどきした!こわい!」
「主人公やさしーーよー(号泣)」
なんて方が、よほど人間味がある。
ちゃんと心をもっている人達だろう。


この映画の感想で、
刺激が足りないとか、
単調過ぎるとか、
ちょっとした部分の意味がなくてわからない
とか書いている人がいた。


こういうのを読むと、

以前、どこかのQ&Aにて
「飛び降り自殺の遺体を見てしまった、
以来、気持ち悪くて仕方がない。
遺族に慰謝料をもらえるか?」
という質問があり、

弁護士が
「あなたは人としてずれている」
というようなことを、憤りという感情を丁寧におさえつつ、返信していたことを思い出す。


普段は、弁護士は、
ずれた人、怒る人、
たくさん相手にしていて、
淡々と法律にのっとった話しかしなくて、
むしろ、その対応に不満を感じるほどであったりするのに。

パソコンのログイン状況を見る方法

パソコンのログイン状況をチェックする方法

「自分が居ない時に、見られたかな~?」

を調べる方法です。

 

Windows7なので見にくいかもしれません。

 

 

①「スタート」クリック

「コンピューター」タブ上で右クリックして

出てくるメニューから

「管理」をクリックして開きます。

 

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②「管理」画面を開いたら

「イベントビューアー」(左の△マークをクリックする)

Windowsログ」

「システム」

にて、調べる事ができます。

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森林原人さんの「結婚とセックスと恋愛を一緒にするのは無理がある」

r25.jp

 

一読すると、平易かつ論理的で説得力があるんですが、

どうしてもこのお話が気になってまして、

ひとこと書いておくことにしました。

(2週間以上気になってたわけですw)

 

批判というつもりではないのですが、

一元的な見方をする、というのが好きではないためです。

(つまり、「批判」という真反対から言うのも好きではありません)

 

 

「森林さん、ちょ、ちょっとまって?」

と思う所がありました。

 

それは、森林さんご自身が「AV男優」という職業を選んだわけですが、

最初のうちは相手の女優さんを好きになっていたそうです。

だけど、仕事であって恋愛ではないので、振られてしまうのですね。

 

それを何度も繰り返したことで

やっと、

「そうか、恋愛と結婚とセックスは別なんだ!」

という「境地」に通じたわけです。

 

いや、頭ではすぐわかったかもしれませんが、

心もそうなるには、現場でガッツリと「もまれた」わけですよね。

 

 

一般人は、

恋愛してふられて、恋愛してふられて、と繰り返すか、

お金を払って職業としている女性を抱くとかするわけで、

AV男優をやっている人はごくわずかの人ですからね。

 

森林さんが体験したようなことを経験することもなしに

特に心が元々そうでない人が

「恋愛とセックスを分ける」

というふうに納得できるようになるのは

実際には難しいんじゃないかな、と思った次第です。

 

 

また、

自己満足だけを追求するために、

他者に強要するのはまた別の話ですね。

(相手ありきだから)

 

ただ、

自分がこれら「三位一体」なことしか頭になくて、

そこに縛られて辛いとか、苦しい、とかいった場合は、

「分けて考えてみようと思う、それもありだ」

という捉え方をするにはいいと思います。

 

この意味では本当にわかりやすく書いていらっしゃるので。